(続き)
自分などは悲しいかな、芸術家としての必要条件が何一つなく、全く恥ずかしくなります。技術は勿論のこと、人格はゼロときているので、これからも将来が恐ろしくなります。いくら飾ってもゼロはゼロですから、最早何事も断念したくなります。仕方がありませんから、自分の出来る範囲で世の中に奉仕しようと思います。自分のようなものでも世の中に使われる等、いよいよ恥じ入るばかりです。将来を考えるともうとても苦しくなります。
クロイツァー先生の人格はO氏等はとやかく言われますが、今、ここでは申し上げられません。私はただ立派な人であることを言っておきます。
こちらでは大家必ずしも良い先生ではありません。(良い先生とは教授法の上手な人ということで)これは演奏と教授が別物であることを意味します。
クロイツァー先生は演奏と教授が両立しているので、ベルリンでは第一流です。
人間には必ず癖があると同様、演奏にも人によっていろいろの表現を異にします。時には拍子が伸びたり、短くなったりすることがありますが、これは大家にのみ徳に許される場合で、我々はその辺を注意せぬと一寸変に思われることがないでもありません。
クロイツァー先生はコハンスキー先生のように始めの音を幾分長めに弾かれます。これはクロイツァー先生はだけが特に良いので、我々にはそうすることがどれだけ良い効果になるか全くわかりません。たとえ伸ばしても全体には何等の影響も及ぼさないでしょう。コハンスキー先生はよくクロイツァー先生の表現法を研究されました(と言いましてもそれは同一ではありませんが)表現は同様でも音そのものが違っては比較が困難ですが、大体表現だけは、似ています。
◎先生はいつもご自分の演奏を謙遜されています。
(中の人ツッコミ)
規矩士はとても謙虚であったということが伝えられています。
これらの文章からやはり芸術に対して謙虚で、誠実であったことがわかります。
そしてその規矩士が尊敬したクロイツァー先生がこのあと1935年(昭和10年)に日本に永住。規矩士も、この手紙のころは婚約者、のちに妻となったすみ(たなかすみこ)と共に日本でレッスンに伺うという幸運に恵まれた。この手紙を書いたころ、そんな幸運が待っているとはきっと想像も出来なかったかと思う。
(田中家に残されていたクロイツァー先生の写真)