176.(余談)ピアニスト「久野久」のこと 久野久さんは磯部温泉で湯治をする。

(この投稿は「久野久」「久野久子」と名前を統一しませんでした。彼女の本名は久野久のようですが、本、Webサイトなどでも統一されていないようです。他の人の名前についても大正時代、本名に「子」とついていなくても○○子と名乗るのはあるあるだったように見受けられます。なので、久も久子と名乗ったりしたこともあったのかもしれません。なので、この投稿も統一しないで書きます。ちなみに婚約者すみこの本名は黒澤すみで、すみ子ではないですが、本人はすみ子、すみこと名乗っていました。こういうことはこの時代案外多かったかと思っています。)

175.昭和4年3月23日5に規矩士が「久野久」(久野久子)に関して書きました。

tanakairoonpu.hateblo.jp

 

「研究は進む程、迷いが多くなるものです。つまり自分のアラが段々にわかってくる証拠になります。すっかり行き詰って気が変になると久野先生の(中の人注:久野久子のことか。)ようになるかも知れませんから、そうならぬように願いましょう。迷うだけ馬鹿らしいです。4,5年で上達するならば(出来上がるものならば)苦しむものはありません。」

この手紙から東京音楽学校ピアノ科教授だった久野久は、「芸術に行き詰まって気が変になった」と規矩士は認識していたことがわかりました。

規矩士がこうやって同じ東京音楽学校の生徒だった婚約者すみこに書いたということは、この当時「久野久」先生のことは、こういう認識だったと想像出来ます。

さて、このような本があります。

原田稔著「熱情」の使徒は二度甦る―4私本・久野久子伝1(2009年)自費出版

この本は自費出版らしいので、一般には流通していないようです。この本を教えてくれた知人の話です。

この知人の係累は、群馬県磯部温泉で旅館を経営していたそうです。その旅館には

「昔はピアニストがピアノを持って泊まっていた。外国で自殺をしたそうだ。」

という伝承があったそうです。

この本の319ページに

久野先生は(中略)近年はほとんど磯部温泉ばかりにお出になりました。(中略)温泉にはいつも練習用に特別に作らせた卓上ピアノを持ってゆかれました。此のピアノは鍵盤の大きさはほとんど普通のピアノと同じでありますが、ただ携帯の便利のために三つに折たたむようになっておりました。」(兼常とく:『婦人之友』大正十四年六月号91ページから94ページ「久野先生のこと二つ三つ」)

と書いてありました。

この伝承と本を教えてくれた知人は、アマチュアのピアニストでもあります。

伝承が本によって裏付けられたと喜んでいました。

さて、この磯部温泉に逗留していたのが、事故の前か後かはわかりません。しかし記述から事故の後かもしれないと推測します。

1915年(大正4年久野久は大きな事故に遭ってしまいました。この本によると、東京赤坂の溜池付近の葵橋電停付近にて、無鑑札でしかも無免許運転の自動車にはねられて、重傷を負ったとのことです。自動車の運転免許は1907年(明治40年)に定められたそうです。

この事故は、東京音楽学校助教授(当時)で、有名女流ピアニストが遭ってしまった。ということで新聞にも大々的に報じられたそうです。この事故によって、当時社会問題化しつつあった自動車事故対策に一石を投じることになったのは思わぬ副産物であったそうです。(22ページ)

さて、怪我はろっ骨骨折に連動する内臓損傷と肺炎。しかし頭部の怪我もあったようですが、こちらはよくわからないとしています。

しかしろっ骨の方は治ってきても頭痛、めまいがあると新聞が報じています。(16ページ)

1月に事故に遭い、復帰が9月。この当時は抗生物質もないし、肋骨骨折の手術(実は現代でも肋骨骨折は手術はしないようです)などは出来ない。レントゲンのX線は発見されていましたが、現在のようにそこら中の病院やら診療所にある時代ではない。久野久が入院した病院にはあったのか?おそらくないでしょう。

www.shimadzu.co.jp

それにしても快復に時間がかかっているなあという感想を持ちました。

音楽評論家小松耕輔はこう書いているのだそうです。

「数年前彼女は溜池において自動車にひかれて頭部を負傷した。幸いにして外傷は全癒したが、内部の故障は全く癒えたとは言えなかった。私は彼女の全快後しばしば彼女と会っていたが、私にはそれが明らかに意識された。」(326ページ)

著者は

「要するところ、小松は大正四年の奇禍が久子の脳に深刻な後遺症を残し、それが以後の精神的な不安定さにつながり、ひいてはウィーンでの自殺につながる原因を作ったとの考えを述べている。」(327ページ)

この記述は他のWebサイトにての意見にも反映されていると思いました。

しかし、この当時脳の「高次機能障害」のことがどこまでわかっていたのかはわかりません。

規矩士は「行き詰まって気が変になって」と書いています。

規矩士が東京音楽学校予科に入学したのが、1915年(大正4年)。ちょうど久野久が事故に遭った同じ年です。

規矩士が入学したのはおそらく4月なので、久野先生は休職中であったと思います。そして9月より復帰。この事故は新聞などで大々的に報じらていたようなので、当然規矩士も知っていたでしょう。そして久野先生は1923年(大正12年)に渡欧。1925年(大正14年オーストリアのウィーン近郊のバーデンで自死

規矩士が本科を卒業するのが1919年(大正8年)3月。研究科を卒業するのが1921年(大正10年)です。教務嘱託になるのが、1923年(大正12年)。婚約者すみこ(旧姓黒澤)が東京音楽学校に入学するのが1926年(大正15年)です。

 

(小さな声で:久野先生が東京音楽学校を退職するのと、規矩士が東京音楽学校に入職するのが同じ年なんだ。まさかまさか規矩士は久野先生の後任ってことはないよね?)

 

規矩士の学生時代と久野先生が教鞭をとっていた時代が重なっています。

おそらく規矩士は久野久教授を知っていたでしょう。身近に見ていたかもしれません。

 

手紙を読む限り、規矩士にとって日本とはかけ離れているベルリンでの生活は、かなり苦しいこともあったようです。留学はその国、その場所に合っている場合には楽しいですが、合っていないと苦しいようです。そして母国日本と離れているだけで苦しくなる人、それほどダメージがない人。こればかりは個人差が大きいのかもしれません。

規矩士の手紙からは「もう帰りたい」と思ったり「もっともっとベルリンで勉強したい」という思いで揺れ動いたことが察せられます。

渡欧した久野久さんはどうだったのでしょうか?久野久さんは足も不自由だったと伝えられています。足が不自由+脳の損傷?+女性(この当時は女性は差別されていたから)+東洋人(こちらも差別の対象です。)ということで、いろいろと困難が多かったかと想像しています。ところで久野久さんはドイツ語とか英語とか言葉はどれだけ出来たんだろうか?

この本の後、久野久さんのことを調べた資料がないか探しているのですが、こちらのWebサイトくらいしかないようです。

【幸太のコラム《日本ピアノ文化史》―久野久子】

blog.livedoor.jp

先の本も続編が出ません。

研究が進むと良いのですが。