171.(余談)チケットの半券たち12 26歳のホロヴィッツを聴く!
1929年2月8日 午後8時開演 ベートーヴェンザール
ピアノの夕べ
ウラディミール・ホロヴィッツ(1903-1989)
曲目不明
20世紀を代表するスターピアニスト。
アマチュアピアニストであった母の手ほどきでピアノを始め、キエフ音楽院を卒業。1920年にデビュー。当時のソビエト連邦での演奏活動を開始する。
1926年、初の国外演奏会をベルリンにて開催。成功を収めた。
その後アメリカに渡り、1928年チャイコフスキーのピアノ協奏曲で大成功を収めた。最後のコーダを圧倒的な速度で弾き切り、大喝采を浴び、新聞でも報道された。
指揮者トスカニーニの娘と結婚して、1944年にはアメリカ市民権を得た。
何回か演奏活動をしない期間があるとはいえ、最晩年までいろいろな意味で「世界最高のピアニスト」として君臨をした。
日本には1983年に初来日。しかしこの時は不調で、音楽評論家の吉田秀和が「ひびわれた骨董」と評した。ホロヴィッツ自身はこのコンサートの失敗を気に病んでいたようで、3年後の1986年再び来日。この時は往年の輝きを取り戻した演奏だった。
1989年アメリカの自宅にて没。
ホロヴィッツの魅力は「興に乗った時の演奏は大きな感動を呼び起こし、時には悪魔的とまで評される表現力」「最弱音から最強音までの音の美しさ。最弱音は大ホールいっぱいに響き渡り、最強音の爆音はすさまじい」ことである。その独特の演奏スタイルで、一世を風靡した。
さて、規矩士がベルリンで聴いたホロヴィッツは、まだ26歳。アメリカデビューをした直後であった。
規矩士がホロヴィッツに関してどのような感想を持ったかは現段階ではわからないが、ホロヴィッツの演奏会に出かけていったことから、何か評判を聞いて聴きたくなったのか?と推測している。
(中の人心の声:26歳の若きホロヴィッツの演奏を聴いたんだ。どんなだったのかなあ?興味津々ですよ規矩士先生!)
1928年のアメリカデビューの爆演の記録はないが、デビュー25周年の1953年にニューヨークで演奏されたライブは録音があり、今でも聴くことが出来ます。とくに最後のオクターブの連打(29分25秒あたり)はアメリカデビューの時に大騒ぎとなり、「鍵盤から煙が出た」と評されたそうです。以下の動画サイトに残る録音は、アメリカデビューを彷彿とさせる演奏です。
デビュー50周年として1978年にニューヨークで演奏されたラフマニノフのピアノ協奏曲第3番。ホロヴィッツ75歳の演奏。このラフマニノフの3番は難曲として知られ、ラフマニノフ本人以外はなかなか演奏されなかったのですが、ホロヴィッツが弾くようになって、他のピアニストも演奏するようになったのだそうです。
(そういえば規矩士はベルリンでフルトヴェングラー指揮ベルリンフィルで、ラフマニノフ本人が弾くこの曲を聴いていますね。大感動だったようです。)
若きホロヴィッツが残したピアノロールでの演奏。こちらもニューヨークでの爆演を彷彿とさせるものです。1928年ということで規矩士が聴いたものと近いかもしれません。
この曲もホロヴィッツが弾くようになって、一般に知られるようになった曲だそうです。規矩士は1931年(昭和6)12月11日 音楽大演奏会 於日本青年館 日本教育音楽協会主催、1932年(昭和7)11月27日 日本青年館における自主リサイタルで取り上げています。
【スクリャービン:練習曲 Op.8 No.12】
ホロヴィッツといえばこの曲の演奏も印象に深いです。
残されたリサイタルプログラムから、規矩士はスクリャービンが好きだったのかもしれない。
ホロヴィッツは超絶技巧でも有名でした。その演奏は残されている録音などから「心穏やかになる演奏」というより「圧倒的な演奏」で聴いていると思わず「すげえ」という感想が漏れてしまうものだと思います。
常、日ごろから表現のために「技術」と「テクニック」をきちんとマスターすべきと考える規矩士にとって、おそらくホロヴィッツの演奏は異次元のものだったかと想像しています。
この後「規矩士のホロヴィッツ評」が出てきたら、また投稿したいと思います。
(ないかなあ。あれば面白いのにね)
規矩士がベルリンで聴いた大物たち。
ラフマニノフ、フルトヴェングラー、ワルター、ヒンデミット、クライスラー、バックハウス、そして若き日のホロヴィッツと続いています。
この後どんな演奏家との邂逅が待っているのでしょうか?
ベルリンのコンサートシーズンはスゴイというかヤバいです。規矩士が毎日コンサートに通いたくのもむべなるかな。中の人もとってもとっても聴きたいです!