〇橘先生には特別に御親切、私も嬉しく感じています。先生も、すみ子女史に対しては私との将来の何事も知られているようで、先日も先生から特にすみ子女史について話されました。誰が言うか全く見当がつきません。私も橘先生にはよろしくいたしております故、どうか今後ともますます御勉強を希望します。なお、先生にもよろしくといずれお便りしますが、毎日多忙のため忙しくして皆様に失礼していますと。
えらい先生はどんなにやさしくしてくださってもこちらが恐ろしくなります。これが本当のえらい先生。世界のいわゆる大家はただ、だまってそこにおられるだけでこちらが震えます。優しいからといって決して油断は出来ません。「ガミガミ」怒鳴る先生が決してえらいとは限りません。(やたら理もわからず怒る先生)。最後はその先生の光りにあるのです。
(中の人ツッコミ)
橘糸重先生のことがまた言及されています。
『世界中にいろおんぷ』でもすみこが「東京音楽学校では橘糸重先生でした」と語っています。(101ページ)
残された規矩士の手紙にも橘先生に「よろしく」という伝言も多く書かれているようです。
すみこがいつから橘先生に師事したかはわかりません。少なくとも1928年(昭和3年)には間違いなく橘先生に師事していたと思います。
すみこが東京音楽学校に入学するのは1926年(大正15年)。この1928年(昭和3年)は本科2年です。現代の音大であれば大学3年ということです。
井口基成の自伝などから察するに、最終学年の本科3年は外国人教師に師事するようです。なので、この次の年はすみこもコハンスキー先生に師事しているようです。(本人が書いた略歴にもコハンスキーの名前があります。)
この後の手紙にも橘先生とすみこの話が書かれているようです。
これらのことからすみこは「東京音楽学校では橘糸重」に師事。と明記してもよさそうです。
橘先生からはどういうレッスンを受けたのかは、すみこが語ったものがないのでわかりません。すみこは「クロイツァー先生」のことは多くを語りましたが、学生時代に師事した橘糸重先生のことはほとんど語っていませんでした。周りにいた私たちもこの『世界中にいろおんぷ』に書かれているのを見て初めて知ったのです。
橘先生もどのようなピアノを弾かれたのかも、中の人が見た範囲ではよくわかりません。ただ、彼女は和歌の才能があったようで、歌人としての作品が多く残っています。
こちらのリンク先には以下のような引用があります。
「東京音楽学校ピアノ科教授橘糸重(1873-1939)は天才的な歌人であり、伊東一夫によれば『もし彼女が専門歌人であったなら、おそらく与謝野晶子に匹敵する大歌人になったであろうとは、評者のひとしく認めるところである』」(伊東一夫『藤村をめぐる女性たち』(国書刊行会、1998年)
【東京音楽学校の1909年事件とプロイセン王立ベルリン音楽大学】
すみこは歌人でもあった橘先生の和歌に関してどう思っていたのかは、すみこの周りには何も語っていません。
規矩士が橘先生に関しては、先輩として敬意を払っていることが手紙に多くかかれているようです。この後も手紙にて言及されていくと思うので、気を付けていきたいと思います。
【橘糸重ホームページ】
このPDFの5ページ目に橘糸重先生の話があります。
【近代日本音楽史を彩る女性たち6 歌人ピアニスト橘糸重(その1)(佐野仁美)『クロノス』 京都橘大学女性歴史研究所 (45): 8-9】
(その1 2021年)
こちらは7ページ
(その2 2022年)
橘 糸重(たちばな いとえ、1873(明治6)年 - 1939(昭和14)年)
東京音楽学校卒。同研究科修了。1896年より同校助教授となった。1901年より教授。
3歳年上で、同じ東京音楽学校卒、そして海外留学をした幸田延とは違い、橘糸重が海外留学をすることはなかった。
『東京芸術大学百年史演奏編』によると、1899年(明治32年)定期演奏会でベートーヴェンのソナタ第8番《悲愴》を弾いています。26歳。1902年(明治35年)定期演奏会でショパンのバラード3番に挑戦。29歳。そして1911年(明治44年)5月27日・28日の定期演奏会でシューマンのピアノ協奏曲を弾いています。難曲だ......。この演奏は全曲弾かれたのか、どこかの部分を弾かれたのかはわかりません。
オーケストラ部分はこの当時の外国人教師のハンカ・ペッツォールトのピアノとのこと。
おそらくレコードと外国人教師などのレッスンだけで、これらの難曲に果敢に挑戦されたと思います。
本人は「やはり本場で学びたい」と思ったかどうかは、調べた限りではわかりませんでした。しかしやっていればおそらく「本場の欧米で学びたい」と願うかと思います。
そして1931年(昭和6年)、あのクロイツァー来日。東京音楽学校でもマスタークラスが行われました。その時の聴講者に橘糸重の名前があります。58歳。
どんな想いでこの聴講をなさったのか。
ところで規矩士はすみことの婚約について「誰にも言ってないのに」というニュアンスでこの手紙を書いています。しかし1930年(昭和5年)の新聞には、田中規矩士と黒澤すみの婚約の話も書いてあるので、二人の婚約は案外知られている話だったのかもしれない。
(小さな声で)規矩士鈍感過ぎwww。