4.昭和3年5月6日3 黒澤すみ(のちのたなかすみこ)の姉、黒澤ゆき宛

婚約者黒澤すみ(のちのたなかすみこ)の姉、黒澤ゆき宛

だいぶ暖かくなりました。春らしい良い気候になりましたが、日本の懐かしい桜がないので、それが淋しくてなりません。どこを見ても大きな重苦しい建物ばかりで、只、それに少しばかりの青い草木があるばかり(最も市内には道路の側には一面に青々とした樹木は茂っておりますが)全く若々しい新緑の草木を見たいと思います。大好きなスイートピーの花もないので、一層日本が懐かしく存じます。

 

このところは全く夜の都(?)ですから、夜の遅いことは普通のことで、時には夜の3時に帰ったこともありました。と言うと遊びでにでも行ったかのように聞こえますが、そうではなく用事のためにそんなに遅くなるのですから、驚かれるでしょう。何しろ遅いのだけが全く私には閉口いたしております。今月のはじめにこちらに移りましたが、それまではいやなパンジョン生活をやり、ほとんど毎日毎日いろいろのことで苦しめられました。只今でも楽という理ではありませんが、やはり独りきりのためになかなかつらいことがあり、よく夜など遅くなって考えることがありました。皆様方はご存じはないでしょうが、異国での難儀ほど悲しいものはありません。当分も未だついく事(?続いていると言いたいのか?)でしょうが、あらゆる苦しい事を味わって見たらかえって楽になるのではないかなと思ってみたりして、一晩中起きてしまったこと等もありました。人間はこんな具合にして訓練されてゆくものかしら等とあるいはもっともっと苦痛が増すものか等と独りで思いに沈むこともありました。いずれこんなことは日本に帰りましたならば、申し上げることにいたしましょう。

 

さて、少しづつドイツに慣れてまいりました様ですが、未だ自分で自分の自由のきかないのが弱点で、いつもいま少しドイツ語でも出来たならばと思います。ドイツ人は(悪い奴はなかなか多いですが)割合に親切です。知らなければよく教えてくれます。殊に悪い方をあげると、例えば買い物をする場合、日本人と見ると値をたくさん上げる店がありますから、うっかりしていると同じもので非常な値の差を生じます。人に多いて見ました(?)ならば、こんなことは平気でする由。また、今一つは大変に親切にしていて腹の中が全く違うことがこれが最も癪に障ることでしょう。これがまた多いのですから、全く(?)油断が出来ません。

 

市内には一寸法師のような人をよく見ますがこれらは戦時中、食物の不足から来た一種の病気で(名を英国病と言います。何故だか知りません)それは気の毒なものです。これらを見ると我が共は本当に幸福だなと思いました。

 

(中の人ツッコミ)

パンジョン生活の意味がわかりません。(どなたかご存じの方、ご教示ください)

やはりベルリンは「夜の街」という部分もあるのかもしれません。どちらにしても5月になると日暮れが遅くなるので、ついつい「夜更かし」になってしまうのかもしれません。いろいろと言い訳をしています。

そして規矩士が留学したころは、まだ欧米では人種差別があったと思います。もちろん東洋人は差別の対象です。日本人も例外ではない。このあたりの記述は、「ひょっとして人種差別に遭っていた?」と思われなくもないです。

第一次世界大戦が終わってまだ10年しか経っていないドイツの街です。第一次世界大戦ではベルリンの街は直接な被害はなかったようですが、戦争の爪痕はまだ残っていたのですね。傷病兵や、戦後のハイパーインフレでの荒廃のあとがまだ残っていたのだということを思いました。

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