15.昭和3年6月17日5「ドイツなのに街中ジャズばかり(泣)」
「音楽会は今のところ全く一つもないので、何か聴きたくも聴かれないのが残念です。前にカフェでも相当なものをやるとお話いたしましたが、やはりカフェはカフェで、一時とはよく聴こえるように思っても、よく聴くと駄目で、今日ではもはやこれを聴くのが本当に嫌になりました。殊にヴァイオリンがとてもいやでたまりません。
例のジャズという音楽がかような物、一時は盛んでサクソホーン(サクソフォンのこと)という楽器と共に多く使われていますが、その楽器の影響からでもありましょうが、ヴァイオリンがとても下等に扱われてとても聴くに堪えません。もとからジャズ音楽は日本の馬鹿話と同じものですから、論ずる価値はありませんが、これがまたいたるところに多く聞かれるのですから、むしろ私には苦痛を感じます。
そんなことでこちらに来た頃は友達に誘われてここに来て感心したようなものの只今ではもはやそこに行ってそれを感心する勇気もなく、時間があったら散歩でもした方がましのように思えます。
ドイツ音楽はほんの少い、ある部分にだけしか理解されず、普通一般にはあまりもてないのは実に妙です。
カフェには一人では決して参りませんのは、こんな音楽があるばかりでなく、そこに行って飲んだり食べたりするつまらぬ時間が少しもないために参りませんので、誰か知人でも来たとか集まりの時はその時こそ皆様とご一緒に参ります。
それ以外は全く行ってお茶でも飲もうという気になれませんから、ご安心下さい。
近頃はカフェの下等な音楽がとてもうるさく耳についてたまりません。
何か飲みたい時は家に帰って水をたくさん飲みますから、きわめて簡単です。
レストランもその通りはじめは、2,3度友人に誘われて参りましたが、やはりここにもまたジャズがありますので、ほとほといやになります。多くの中でごく少数は真面目なものもありますが、わざわざこれを聴きにそこに行く必要も認めませんから参りません。要するにドイツであってドイツらしい音楽の聴けないのが、何だか物足りなくいつも町を歩いていてそれを遺憾に思います。」
(中の人ツッコミ)
このご意見は「規矩士若気の至り」(といってもこの時既に31歳なんだが)としておきましょう。(微笑)
規矩士は日本にいた時、ドイツはベルリンの街にどんな幻想を抱いたのだろうか?ドイツ三大Bと言われた「バッハ」「ベートーヴェン」「ブラームス」の音楽がいたる所で聞こえ、モーツァルトやシューベルト(実は両方ともオーストリアのウィーンで活躍した音楽家なのでベルリンではどうなのかなと思いますが)に囲まれる。
「ショパン」や「シューマン」や「リスト」が当たり前のようにそこに存在する。
ところが現実にはベルリンの街でも、この1920年代から世界中で流行が始まったとされる「ジャズ」が当たり前のように流れ、ベートーヴェンはどこへやら。
規矩士の嘆き節です。
のちに規矩士が昭和7年のリサイタルで弾いたドビュッシーの《ミンストレル》は、ジャズの元祖の一つ、ラグタイムや鼓笛隊やシャンソンもどきが次から次へと目まぐるしく現れる、冗談音楽のような作品です。この曲を「くそ真面目」に弾くと面白くない。クラシックなのにどうやって「面白くしたかったの」にするか、さじ加減の難しさのある曲です。
規矩士はどうやってこの曲の「面白くしたかったの」をしたのでしょうね?
ジャズとクラシックは案外近い位置にあります。ジャズは元々アメリカのアフリカンアメリカンの文化から発生したそうです。しかしジャズミュージシャンの中には、もともとあったクラシック音楽の勉強をしたミュージシャンが多く、お互いに影響を受け合ったと言えるでしょう。
クラシック作曲家からのジャズへのオマージュ。
ラヴェル《ピアノ協奏曲》1930年作曲
ピアノの女王と言われるマルタ・アルゲリッチの若いころと4年前の演奏を二つ貼ります。彼女はこの曲を長い間、何十回、もっと弾いてきたと思います。しかしおそらく一つとして同じ演奏はなかったでしょう。これが規矩士が手紙に書いた「先日もピアニスト、シュナーベル氏の演奏を聞きましたが、これなどは今までに何度か演奏せられたら由にて、それなどをもってしましても如何に同じものを弾いても一回やるごとに演奏法が違ってくると言うことをその人から教えられているようなものです。」(昭和3年5月16日付け)ですね。
1969年の演奏
2017年の演奏
プロコフィエフ ピアノソナタ7番。(1943年作曲)この曲もジャズの影響があるそうです。
「天は二物を与えちゃった」沢田蒼梧さんの演奏。(名古屋大学医学部出身。医師兼ピアニスト。2021年のショパンコンクールのコンテスタントでもあります。)
ロシアもの+ジャズってこんな感じ。
こちらも「天は二物を与えちゃった」この方の演奏で。(東大)
(こういう人たちを見ていると、一物ももらえてない中の人はどうしたらいいんだろうねと思いますよホントに)
この曲の和音が積み重なっているのが、ジャズから影響を受け、そしてジャズにも影響を与えた曲。
ドビュッシー本人の演奏で。(残っているのだそうです)
規矩士はサクソフォンの音に少々嫌悪感を示していらっしゃいますが。
【BEYOND THE STANDARD vol.3】バッティストーニ&東京フィル/上野耕平(sax) 山中惇史(pf) 石若駿(perc)「吉松隆:サイバーバード協奏曲」
要するに
「ドイツに行ったら街中がモーツァルトやベートーヴェンであふれていると思ったのに、なんでジャズなの?」と呆気に取られたか?と思います。
16.昭和3年6月17日5 映画音楽はまだマシかも.....。
「活動写真では感心に相当のものをやっていました。(第一等のキネマで)人数は50人以上で、上野よりいくらか多い位。さすがに第一流の活動写真、(?)だけに堂々としています。先日はじめて友人に誘われて参りましたが、なるほどと感心いたしました。活動写真の方には用はありませんが、ムーズィック(中の人注:音楽)を聴くという約束で入場した理ではじめはそんなに立派なものでないと思って入場したら、それはあまり意外でしたので驚きました。ご承知でしょうが、外国ではすべて(?)なく音楽ばかりで、二時間たらず立て続けに写真を写しますが、決して疲れることなく町の人は昼間の疲れを直すために老人は時間をつぶすため、私たちは耳の淋しいのをなぐさめるために(こんな人たちのために)毎日満員ですが、活動写真と言ってもなかなか馬鹿にしたものでもありません。高貴の人がよく見に来るという話を聞きました。全くだろうと思います。日本ならばふと浅草を思い出しますが、ドイツでは決してそんな下等のものに取り扱われてはおりません。だから行くのは差し支えないから、どうしてもそこに行かなければならないという意味ではなく、ただご参考までにお話をいたしましたのに過ぎません。だいぶ暗くなりました。残念ながら筆を置きます。」
この時代はドイツ映画の全盛期でもあったそうです(すみません、映画詳しくない)規矩士が帰る年、1930年の有名な映画「嘆きの天使」とか。
フランス映画だけど、同じ1930年公開の映画「パリの屋根の下」
シャンソンだけどミスタンゲット
クラシックから見たシャンソン。プーランク《愛の小道》(1940年作曲)
クラシックから見たキャバレーソング。シェーンベルクのキャバレーソング。
規矩士がベルリンにいた頃、シェーンベルクはベルリン高等音楽院作曲科教授でした。シェーンベルクといえば。《月に憑かれたピエロ》。
演奏者のコパチンスカヤさんは2023年3月に来日していたそうです。私の周りでは大評判でした。(知らなかったから行けなかった)本業はヴァイオリニスト。でもこういう曲も得意としていらっしゃいます。何でも出来ちゃう。
規矩士が同じベルリンにいたシェーンベルク教授をどう思われたかは、まだわかりません。
規矩士が書いたこの手紙を読んで中の人がふと思ったことです。彼にとって映画音楽はギリギリ許容範囲。ジャズまで吹っ飛んでしまうと許容範囲を超えてしまったのかもしれません。
あと、この手紙の宛先です。まだ東京音楽学校の学生だった若き婚約者の黒澤すみ(のちのたなかすみこ)とそのご実家に宛てているのです。この当時「良家の子女」が「ジャズを聴く」とか「映画館」というのはどうなんだろう?悪所だった可能性も無きにしも非ず。そこをおもんばかっての発言なんだろうか?
そして今を生きる音楽家はクラシックのみならず何でも出来てしまうようです。プーランクを歌ったプティボンさんとコロラトゥーラ歌手として一世を風靡したナタリー・デセイさんのデュエット。ジャズアレンジされたシャンソン。
何でも弾けちゃうピアニスト。
(小さい声で)
規矩士先生、ジャズが気に入らなければ教会に行ってパイプオルガンを聴きましょうよ。この当時のベルリンではどれだけ教会で音楽が聴けたかはわかりませんが、パリでは日曜日ごとに大きな教会のミサは誰でも参加して良いので、教会の専属オルガニストの妙技を聞くことが出来ます。
パリにあるサント・トリニテ教会の専属オルガニストはパリ国立高等音楽院作曲科教授で、オルガニスト、作曲家としても高名だったオリヴィエ・メシアン。彼が毎日曜日に演奏するサント・トリニテ教会のミサは、メシアンの即興演奏を聴きたい音楽愛好家、作曲を勉強する学生、オルガニストなどであふれかえっていたそうです。
17.昭和3年6月24日1 日々のくらし。クロイツァー先生のレッスン 「大森の自宅ピアノは弾いておいてください」
① すみこ様へのお答え
◎諸問題も皆かように解決しましたから、もう苦しくもなんともありません。故ご安心ください。ホームシックは決しておこりません故ご安心ください。付け加えておきます。いろいろの御通信があるため、心はいつも内地におる時と同様。ただはじめは少し淋しいと思いましたが、今はもう慣れました。おたよりがある度に気強いです。
◎イチゴのお話を聞くたに胸がすうっとします。帰りましてからまたたくさんに頂戴します。
◎お稽古については大変に結構と存じます。どうかピアノの御母上様として十分にご勉強ください。学校も整理されて何よりです。
◎クロイツァー先生は本当にご親切な良い先生です。
教授はまた一層厳しいですから、いつも震えます。バッハ、ショパンはもちろん前に一寸弾きましたが、たとえどんなものでも先生に見ていただくと非常に安心が得られますから今では曲の如何を問わず何でも見ていただくようししています。
バッハ(ウェルテンペリーアテスクラビア。多分あなた方も皆やらなければならぬもの)(中の人注。バッハの平均律クラヴィーア曲集のこと)は日本に帰るまでに出来るだけ自分のものにしてゆきますから、そのつもりで。ショパンはバラードF-dur(中の人注:ショパン作曲バラード2番作品38)をしました。良い曲です。書物は全部黄色のものを使用します。(中の人注:ペータース版のこと?)
◎未だ本当に落ち着きませんのでお手紙を書く暇がないので失礼していますが、いずれどしどし書きますから。めちゃめちゃに何でも書きまくりますからそのおつもりで。笑わないように、また怒らないように頼みます。日付はこれから書きます。そちらで弾く考える時は、こちらとも通じてきます。御院の通り不思議なものです。
② 特別に何かご希望ならば何とでもご希望通りにお答えしますから、お考えのところをご遠慮なく御申し出ください。こうしてほしいとかああしてもらいたいなど、何かお気づきの時は私もその通りに何でもお答えいたしますから、付け加えて申します。
◎何か事があった時には全く淋しさが身に沁みますが、自分でも決心していますからご安心下さい。御通信のあるためにいつもにぎやかです。
◎大森の方のピアノはたくさんに御弾きください。どうせ誰も弾き手がありませんから。私もそれを喜びます。写真はこの前のは大成功。何でもよろしいのをお送り下さい。鳩のところは素敵です。気に入りました。
(この後の笈田氏に関して、ここの部分のみの無断転載を禁止します。どうぞよろしくお願いいたします。)
◎笈田氏についてはいずれ言いますが、私としてはあまりお付き合いの出来ない人と思います。決してその人をけなす理ではありませんが。その人の善し悪しを言うのは好みませんが、多分日本に帰っても私のことをもちろん悪く言うことはおろかなことで、たとえ何と言ってもそれには耳をかさぬことです。時には浅田さんにも何か告げるでしょうが、(浅田さんが私の事について行ったことも、皆こちらには知れる位ですから)何を告げても平気な顔でいてください。
私も笈田氏が日本に帰られるまでは自分の本当の勉強のところを少しでも見せず、またどこまでも馬鹿者に見えるように付き合っていますから、いずれ笈田氏が帰られたらいよいよ本舞台に入る考えです。変わった人には変わったようにおつきあいをしなければ他に道はありませんから。こちらからいろいろのことを言ってその人をどうこうするのはまことに卑劣ですから、すべて何も申し上げません。何かあっても決してそれを信ずる必要なく、また浅田氏がいろいろの事を言うようですが、それは人のことにして自分は自分の勉強をすることが良いでしょう。つまらぬことで心配するのは損をします。ただ非常に変わった人としてお知らせしておきましょう。よくご注意下さい。
浅田さんは決して何事も私から申したことを言って困ります。」
クロイツァー先生のレッスンについての言及があります。
大森の田中家のピアノは「すみこ先生に弾いてもらって維持してください」とお願いをしていますね。
そして笈田光吉氏に関しては、やはり規矩士とはそりが合わないみたいです。この後も笈田氏に関していろいろと書いていますが、電脳空間にいろいろと書くのもどうかと思いますので、この後は「書いてあった」のみ翻刻することにします。
人間そりが合わないのは仕方がないことだと思います。
18.昭和3年6月24日2 ジャック・ティボー来日について
③ティボーのヴァイオリンはたしかに良かったことと思います。いつも浅田さんとご一緒、結構です。仲良くなさい。
(中の人ツッコミ)
この浅田さんという人物は誰だろう?この後いろいろと出てくるとわかるかもしれません。
ティボーはヴァイオリニスト、ジャック・ティボーのことだと思います。ちょうど1928年(昭和3年)に来日していたようです。ひょっとして黒澤すみ(のちのたなかすみこ)が聴きに出かけて、そんな話を規矩士宛の手紙に書いたのかもしれません。
ジャック・ティボーはこちらのサイトに詳しいです。
ピアニスト、マルグリット・ロンと国際コンクールを創設。「ロン=ティボー国際コンクール」として現在でも開催されています。
ティボーは飛行機事故で亡くなったのですか.....。
田中家旧宅からコルトーのレコードが多く出てきています。
◎字が細かくなってもよくわかりますから、ご安心ください。うまいとかまずいとかは私などが却ってまずいのですから、ご心配要りません。よく字をぬかしますから、まずいのと合わせてきっと読みにくいと思います。
◎絵葉書はいろいろ変わったのが行きますから、皆様で御覧ください。少しくらい違ったり、まずいくらいはよろしくお許しを願っておきます。何かおかしなところがあったら笑ってください。またご注文も願いましょう。
◎いつでも暇がある時は習字を御寸、めしますが、学校が忙しいならばそんなにとは言いませんが、私も暇があったなら習字だけは習いたいと思っています。上手よりか人に善い感じを与える範囲で。
◎ご希望でしたら、どういうようにもしますから、お知らせ次第でこちらからお返事します。
◎皆様方の御通信は大事にしまってありますから、日本に帰る時も忘れずに持ってゆきます。決して破るようなことはありません。
おそくまで御通信の御筆には恐縮します。私も大体12時半くらいまで、手紙を書きますから、それから床いつきます。
誰もいませんから何とも言わずに黙ってねてしまいます。内地のことは夢となって私に何かを語ってくれます。
◎御姉上様の御たよりは未だつきませんが、厚く御礼します。
19.昭和3年6月24日3 ベルリンは寒い。食事が油が多くて閉口中。日本料理店に行きます。
⑤いくら暑いといいましてもうっかり油断をするとやられますから、常に注意を怠ることが出来ません。未だ冬じたくでおりますが(冬支度というとお笑いになろうか知れませんが)容易に衣物を脱ぐことが危なくて汗をかいてもそのままでいおります。
今頃は気候のためか毎日どんなよい天気でも一変は夕立がきます。何でもベルリンには雷が多いとのこと、何はともあれピカピカゴロゴロが盛んにありますから、あまり良い気持ちがしません。この頃に気候が急に変わりますから、いつも暑いからといって油断をしているとすぐにやられます。先日も勉強中に(モムゼン下宿)二回ばかりすばらしい大きな奴に見舞われましたが、その瞬間目がくらみました。雷の数は日本よりとても多いように思います。
毎日油の多い食物なので、身体中がいやにニチャニチャしてたまりません。
こうなるとまた日本のご馳走が非常に懐かしくなります。
一週毎に一回は日本料理に参りますがその一変のご馳走がまたなによりの楽しみで今では日本のご馳走ならば何でも良いというようになりました。(日本にいた時は西洋食を要求していましたが)
ドイツの食物でも始めは別してご馳走だと思っていましたが、慣れるにつれてうまくないことがわかってきました。多分こちらの要求がそれに慣れたためでしょうが事実油が多すぎるのでたとえば手紙等を書く時も手から脂が出ると言うことになりとてもぬるぬるしてそのいやなこと、お話しになりません。同様に洋服外套までが皆ぬるぬるですからいつもそれには閉口いたします。何かよい工夫がないかと考えていますが、別に名案もなく仕方がないので何回も手を洗うことにしています。」
規矩士はまたまた「ドイツ料理」に文句を言っています。ドイツ料理はやっぱりくどいからね.....。
【ドイツ料理】
規矩士は日本料理店に出入りしているようです。この当時ベルリンにはなんと日本料理店があったようです。「あけぼ乃」「東洋館」など。
こちらのウェブサイトに詳しく書いてありました。
【ベルリン日本人会と欧州戦争(第一部) 大堀 聰】
このウェブサイトの真ん中あたり、スクロールすると<日本食堂>という場所に書いてありました。「日本人会食堂部」「あけぼ乃」「東洋館」「都庵」(この都庵が規矩士がベルリンにいた時にあったかどうかはこのウェブサイトではわからない)
この中のどれに出かけていたのかはわかりませんが、規矩士がベルリンを去る時の「送別会」の場所は「東洋館」だったようなので、「東洋館」に食べに行っていたのかもしれません。
このウェブサイトに「東洋館」のメニューが書いてありました。面白いので書き起こしもしておきます。
酢の物、お浸し、刺身、玉子焼き、味噌汁、ぬた、キュウリの新漬、ご飯、焼き鳥、鰻のかば焼き、茶碗蒸し、湯豆腐、牛鍋、豚鍋、親子丼、天丼、甘煮、塩鮭(?)、おろし、香の物、海苔の佃煮、奈良漬け、田楽、天ぷら、豚焼き、月見豆腐、鶏鍋、寄せ鍋、うな丼など。
ヨーロッパに行くと思うのですが、大体量が多すぎ。あんなに食べられません。油もあれの半分でいいですよね。おそらくですがこの時代のドイツは、油はバターやラードをふんだんに使っていたかもしれません。動物性の油はくどいですよね。胃もたれします。
「規矩士先生、ハーブティーを飲んだらいかがでしょうか?」
この当時のドイツではわかりませんが、現代のドイツでは気軽にドラッグストアやスーパーに売っていますよ。相談すれば教えてくれそうです。
20.昭和3年6月24日4 ドイツと日本の高齢者福祉について言及しています。
「郵便屋は1週に月・水と2回に配達してくれます。いつも朝早く来ますので、うっかり朝寝をしていると起こされます。大抵顔を洗っている時に来ますが、私のが一番多く来るので、まわりの下宿人は皆、驚いています。前の老人が私に「そんなにたくさん内地からお便りがあるのでお楽しみですね」と言ったが、なるほど皆様のお便りが固まって来るので、おかげ様でこの点は淋しくありません。
到着当時しばらく淋しいと思いましたが、慣れるにつれてそれが無くなりました。
国は変わってもこちらに本当の心さえあれば、人が不親切にしないと言う考えがありますので、、とは思っても中には実に酷いことをする奴がいますから、そう全部を信ずる理はゆきませんが、大抵はこちらの心ひとつでどうにもなると思います。あるところまではそれを信じて(?)違いはありませんが、あまりに人をよくしていることも考えもので時には相当こちらも強く出なければならない場合もありますからその辺はその人の考えにまかせる外はありません。何か物をやってもそれがあたりまえに思うのですから、却ってそれをして反対に要求が激しくなって困る場合も起こります。人が違いからだが違い、思想が違うのですから、日本式に全部を(?)うのは一寸無理でそう。」
(中の人ツッコミ:なんとなくですが、やはり人種差別を受けてないか?と感じてしまいます。)
「ですから大抵のところでこちらも見切りをつけなければなりません。戦はこちらの人の頭は皆、自分主義になり、何でも自分さえよければ人は善くなろうと悪くなろうとそんなことは構わぬと言うことを盛んにもらしますが、実に気の毒な思想と思いました。老人はことに気の毒で、子どもには老人を養う義務なしとの変な規則だか、法律だかを盛んに振りまくんで、その老人こそ他で見ていても気の毒な程みじめな生活をしています。私は日本人ですからまことに気の毒と思うのですが、こちらの者はそんなことには一向無頓着がありません。自分たちが仮に老人を勝手に投げ出したとしたらそれはどうなるでしょうか?恐らく日本人としてそんな鬼の如き心には(たまにはありますが)誰もなれと言ってもなれないことは言を打ちません。ところがこちらにはそれがたくさんあるのですから、全くもって(?)くの外はないのです。こんな変わった思想だか法律だかだけはどうもあまりに情けなさすぎると存じます。どうか老人でなく誰でも本当に気の毒な者は救ってやらなければならぬと言う考えが私には殊に必要だと信じますが、幸い日本人はそれ程までに外国式の不人情はまあ少ないですから、甚だ心強くうれしく存じます。
それにこちらの人々の(?)の感じは他で見るほどに美しいものはごく少ない事です。その良い例が道端に立っている巡査君ですが、迷惑そうな顔をする時にも一寸お菓子をやると直ちにニコニコ顔でそれはそれはご親切になるのです。からこれがよいお手本ではありませんか。全体がこんな具合で何から何までこのお菓子の力一つ、私も全くいやになりました。一寸何か頼むのでもまず先にお菓子をつぐのですからまるで人(?)がお菓子で動いているようなものです。音楽会はさてはカフェーレストランにいたるまで実にめまぐるしいようにお菓子を活躍されるのでいやもう私どもにはとてもいやでいやでたまりませんが、どうも仕方がありません。こんなところが所詮外国式の違う所で、これなども法のついでにあまり妙な御法とは思いますが、申し上げておきます。それではまたごきげんよう。」
この当時の日本における高齢者福祉は、「家単位」でのものであったようです。現代における老人ホームはないことはないですが、特殊なものでした。今と違って高齢者そのものが少ないので、「家単位」で介護が可能だったのかもしれません。その介護を担ったのは嫁だったんですけどね。(大変だったと思う)
しかし、このころの欧米は既に「個人主義」がいきわたっていたのかもしれません。高齢者福祉について欧米の「個人主義」なので、「社会全体での高齢者福祉」と、日本の「家単位での高齢者福祉」の差がだいぶ大きいと思います。
規矩士は日本とドイツの高齢者福祉の差についてだいぶ驚いています。
21.昭和3年7月1日1 メンソレータムお役立ち。クロイツァー先生のレッスンはコハンスキー先生のレッスンと似ている。
7月1日
すみこ様へのお返事
①ベルリンの絵葉書でこちらから御送りする者の中で、あるいは同じものが重なる場合もあるといけませんから、お暇の折に一寸絵葉書の場所、名前をお知らせください。同一場所でもハガキが違うのならば、よろしいのですが、全く同じものでしたらつまらぬですから。数が多いので、以前に差し上げたのを忘れる心配がありますので念のためお知らせしておきます。
こちらでも注意はしておりますが、それでもよく間違いを生じますので。
◎大使館宛の場合には限らず端の方に漢字で私の名前をご記入願いたく。また、この方が間違いが少ないように思います。
◎第一信は4月11日に到着。第二信は4月19日、第三信は5月23日、第四信は5月24日、第五信は6月11日、第六信は6月18日に到着しましたから、ご安心下さい。また、第七信は6月29日に着きました。
◎木村さんも試験に無事通過、昨今非常に勉強しているとの通信あり、入学にあたっては黒澤さんのご尽力また大なるものあり、第二の田中先生として心から感謝していますと言ってきました。大いに今後ともよろしく頼みます。
◎新下宿は住所だけは御通信しておきますが、大使館の割合に近くですから、当分私がこちらに頼むと言う通信がないうちは、大使館宛に頼みます。前の下宿のこともあるので、しばらく様子を見たうえであらためて御通信しますから。新住所はクロイツァー先生のすぐ近所で、交通の便利なところです。
Berlin-Schönebeug.Regensbüger Str.28
(Bei Frau Kaese)
新下宿は一番下ですから、出入りに便利で、室も前よりいくらか善いと思いますから、南京虫はいないだろうと喜んでいるもの、なんだか少し怪しいので閉口します。市内大抵の場所にはどこにもいるものと見えます。さすが何事も進歩しているようだけに、南京虫までが進歩しているののにはあきれます。あらゆる場合にメンソレータムが最も有効に使用せられております。大事に用いておりますからご安心下さい。近くに終わりを告げるようになろうと思いますから、少し心細くなりました。ドイツにはこれはありません。
◎音楽会のプロ(中の人注:プログラムのこと)を感謝します。こちらからもいずれたくさん送りますから、しまっておいて下さい。
◎音楽会はたいていきちんと始まるような始まらぬような具合で、それも人を見てやりますから、日本と変わりません。大抵は7時半か8時開演です。(?)品のみお茶を飲みながら聞かれます。左様言う中でも汗を流すということでしょう。丁度我々が暑中でも冷汗を流すと同じでようなことです。ラジオでも素晴らしいものばかり。これでも十分に慰めが求められます。
◎(中の人注:クロイツァー)先生の稽古は大抵1時間余りで、先日などは2時間余りもかかったのですから、とてもへたばりました。本当の外国式ですから、(?)でたまりません。コハン先生と大体同じです。それに少し味があると思ったらよいでしょう。バッハ、ショパン、ベートーヴェンという風に、クラシック、モダーンをかためてやります。感じはコハン先生もクロイツァー先生に似ていました。クロイツァー先生の注意をコハン先生がそのまま受け売りをしています。
黒澤すみ(のちのたなかすみこ)の実家、黒澤家とメンソレータム(現メンターム)の近江兄弟社は関係があったと思います。48年間たなかすみこのアシスタント先生だったにしきさゆりの話では、「たしかすみこ先生の妹さんが、近江兄弟社の誰かと結婚されてたと思う」と言っています。
メンソレータム(現メンターム)の近江兄弟社の社主はアメリカ人であるウィリアム・メレル・ヴォーリズ。黒澤家の経営する「黒澤商店」はアメリカと商売をしていたので、やはりなんらかの関係があったと思います。そういうことで、規矩士留学にあたって黒澤家の方で常備薬としてメンソレータム(現メンターム)を用意したのだと思います。この当時、既に田中規矩士と黒澤すみ(のちのたなかすみこ)は婚約していた訳ですし。
メンソレータムはDLカンフル、メントールやユーカリ油が入っているので、かゆみ止めにぴったり。虫刺されにきっと効果がありますね。
規矩士の手紙には「ドイツにはメンソレータムはない」と書いています。
コハン先生はコハンスキー先生のこと。コハンスキー先生はクロイツァー先生の助手をしていたことがあったので、二人の演奏傾向はよく似ていたのでしょう。
コハンスキーと言うのは長いと思われていたようで、他にも「コハン先生」と言われる話を聞いたことがあります。コハンスキー先生は、戦後武蔵野音楽大学の先生になりました。
黒澤すみ(のちのたなかすみこ)もコハンスキー先生に師事していたことがあります。
25に記載があります。レオニード・コハンスキーは芸名であったらしく、本名はヨセフ・カガノフといったようです。
それにしてもクロイツァー先生のレッスンを2時間も受けられたって良かったですね。お疲れ様でした。