1.前書き

東京音楽学校ピアノ科教授、田中規矩士は1928年3月から1930年5月まで、文部省派遣官費留学生として、ドイツ国ベルリンに留学をしました。

ピアノはレオニード・クロイツァーに師事。

約2年間の留学でした。

こちらの資料に田中規矩士が文部省在外研究員としてドイツに行ったことが書いてあります。この資料には田中規矩士はイタリアとアメリカに在留と書いてありますが、実際にはイタリアは視察。帰国の時、大西洋を渡ってアメリカ経由で帰ったので、そのことと思われます。

dl.ndl.go.jp

その間、婚約者の黒澤すみ(たなかすみこ)と、黒澤家に手紙を書きました。その手紙が田中規矩士・たなかすみこの旧宅に残されていました。

この手紙を公開します。

田中規矩士ベルリン時代と伝わる写真。ピアノはブリュートナー

田中規矩士に関してはこちらもご参照ください。

田中規矩士・たなかすみこ夫妻の記憶 β版

tanakairoonpu.hatenablog.jp

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日付は体裁を整えるために、いろいろと移動をしています。消せるらしいのですが、よくわからなかったのでそのままです。無視してください。

   中の人 いろおんぷのまり

中の人

ハンドルネーム:いろおんぷのまり

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3歳よりたなかすみこにピアノを師事。いろおんぷにてピアノを始める。

東京都立芸術高等学校音楽科卒。桐朋学園大学音楽学部卒業。同研究科修了。

現在は音楽教室講師。幼児初心者の指導メソッドは「たなかすみこいろおんぷ」

ピアノ以外にチェンバロフォルテピアノを弾きます。古楽系合唱団でも歌っています。

ウェブサイト「田中規矩士・たなかすみこ夫妻の記憶β版」「田中三郎の日記」管理人。

 

tanakakeiichisaburou.hatenablog.com

 

 

 

2.昭和3年5月6日1 異国の地で淋しい生活。ベルリンの女性の服装にびっくりしています。

「5月6日 たなかすみこ(旧姓黒澤すみ)宛

相変わらず勉強ですか。小生も一人きりのつらい淋しい生活を続けて毎日屋根裏でこつこつ勉強をしています。

話をしたくも誰もなくそれこそ自分に同情をよせてくれそうな人は全くないのでそれこそこんなことで月日が送れるものか等と考えたりしました。全く異国の淋しさ程たよりのなり心細いものはないと思いました。自分はこんなに今、苦しいと言った所で筆には表されず、全くその心はただ推量してもらうよりほかはないだろうと思いました。今頃は前に小生が伺ったころではありませんでしたかと言うのも、このペンの上の事で、誰もこれに答えてくれる人はいないから、この答えは20日過ぎでなければ自分のもとに来ないと思うだけでも遠い所だなと思いました。

それにしても短い年月にいろいろの変化があったものとつくづく思いました。どうか皆様方ご丈夫でお過ごしのよう切にお頼みします。

 

だんだんに暖かくなりました。ベルリンにも春らしい気候が訪れて来ました。鳥は歌い蝶は舞うというようなことはあまり見られないから、これを思うと日本がなつかしくなりました。それに大好きなスイートピーがどうしてないのでしょう。さくらもあってもまるで気の抜けたような蝉のぬけがら(の?)ようなもので、そんなものならないのも同様、やはり日本の春が殊になつかしくしみじみと感じます。

 

町行く人は皆春らしい服装をして歩いているが、私が見るとまるで獣(を)見たように見えてなりません。身体の中まで見えるような薄い衣物を着て、喜んで歩いている婦人達を見ると、胸が悪くなりそうです。

そんなにまでこの町は人の心を迷わしそうに出来ていますから、人々が横道に入る(?)のも道理はないだろうと思いました。小生はこちらにきても以前と同様すこしも変わりなく人は何と言おうとも自分の歩む道を忘れませんからご安心ください。

 

こちらに来ている者が盛んにビーア(中の人注:ビールのことだと思います)をすすめるが、そんなものは勉強には無用。プカプカ煙を出すのも全く無意味。ただ、愛らしい草花、新緑の若葉を唯一の友としてまた、自らを救ってくれるクラビア(クラヴィーア。要するにピアノのこと)を我が父母と思い、それを楽しんで淋しいながら自分の慰安としています。早く皆で写した写真を見たいと思いますが、せめて写真だけで内地を忘れないようにつとめています。

 

こちらは女であって女に見えない服装をした人を見ますが、どこがそれで良いものやら、又、断髪があまりにも男と同様なので傍から(?。崩し字なのでわからないがおそらく)見ると差別がつかない者がたくさん居ます等、男女という差が全体にあまりないように思えます。だから女の威張るなどは普通のことでしょう。

 

(中の人ツッコミ)

規矩士の手紙第1号とされているものです。

規矩士は弟、三郎氏の日記によれば大正13年ごろは父、母、長兄、弟と5人で賑やかに暮らしていました。大正15年に長兄が没。それでも4人家族です。今で言う4K(6畳が2室、4畳半、2畳の玄関、勝手と風呂があります)のそれほど広くない家に暮らしていました。それがいきなり異国で独り暮らしです。かなり淋しく感じているように思います。

 

この時代の女性の服装にびっくりされているようです。この時代の日本では大人の女性は和服が多かったようです。

www.buyma.com

renote.net

「男女という差が全体にあまりないように思えます。だから女の威張るなどは普通のことでしょう。」

今なら炎上要件ですが、昭和3年当時のリアルな男性の意見としてそのまま載せます。時代が違うということです。(差別を助長するものではありません)

3.昭和3年5月6日2 ベルリンの街かど。地下鉄、路面電車。道路

「道路は全部アスファルトで我が日本のように壊れた所は少しもなく、皆、見事なものです。

自動車は素晴らしい大きな奴がうようよとしています。地下鉄道は6台連結のものがさかんに走っていて、皆どれもこれも非常な進歩ぶりを表しています。

電車(中の人注:路面電車のことだと思います)は大抵は2台連結ですが、(中には1台のもあります)旗振りやレール扱い者も、皆赤黄青の電気信号でやっています。レールが変わる時は電車の運転手が独りで長い鉄の棒を電車の窓から出してレールを変えて進行を続けます。

こんなことは日本の電車にはありませんが、何だか少し田舎じみたようにも見えますが、一方から考えると人を使わないですむから結局利益になるとも考えられましょうか。

何にせよ電車だけはあまり立派ではなく東京の方がかえって機敏で盛んなような気がします。決して電車にぶら下がると言う軽業は見たくもありません。それに人々が皆、のんきで急ぐ奴がありませんから却って電車も楽に走るのではないかと思いました。

軌道は東京と少しも変わりなく車体は小さなものですから、あれが東京だったらとても人は乗れそうにもありません。電車だけはどうも感心しませんが、乗合自動車(バスのこと)はとても素晴らしいものです。2,3回乗りましたがそれは立派なものです。今日はこの辺りで止めて、また段々あらゆる方面を話していきます。これでベルリン放送は紙面の都合で切ります。」

 

ベルリン放送は紙面の都合で切ります。

規矩士のユーモアが光ります(*^-^*)。

日本では1925年(大正14年)3月22日に始まったそうです。田中家は新しもの好きな所もあるので、割と早くラジオ受信をしていたかも?と思っています。

www.homemate-research-radio-station.com

ベルリンの地下鉄は1902年(明治35年)に開通したのだそうです。

www.jametro.or.jp

ちなみに日本では上野ー浅草間の開通が1927年(昭和2年)12月。規矩士はこの開業を日本で見てから、ベルリンに行きました。

www.jametro.or.jp

1927年のベルリンの映像にAIでカラー化したもの。

www.youtube.com

『公衆作法 東京見物』1926年という映画にAIでカラー化したもの。文部省が作った啓蒙映画なので、おそらくかなり作りこんでいるとは思いますが、それでもベルリンの街とは大違い。

いきなりベルリンに放り込まれた規矩士が驚いてしまうのも道理だと思います。

中の人もこれらの動画を見るまで、ここまで違うということはわからなかった。

www.youtube.com

(2023年10月27日追記)

ベルリンの公共機関の動画を発見したので貼ります。

【Berliner S-Bahn - die ersten Filmaufnahmen 1900-1927】

www.youtube.com

ベルリン市電の動画発見!現在はハノーファーにある博物館にて動態保存されているそうです。乗って来たという動画。

www.youtube.com

4分あたりからの市電が1924年製のベルリン市電なんだそうです。そして5分36秒あたり、棒のようなものでポイント交換をしていますが、規矩士もそのことを書いていました!この動画では他の人がやっていましたが、規矩士が見たのは運転手が降りてやっていたようですね。

4.昭和3年5月6日3 黒澤すみ(のちのたなかすみこ)の姉、黒澤ゆき宛

婚約者黒澤すみ(のちのたなかすみこ)の姉、黒澤ゆき宛

だいぶ暖かくなりました。春らしい良い気候になりましたが、日本の懐かしい桜がないので、それが淋しくてなりません。どこを見ても大きな重苦しい建物ばかりで、只、それに少しばかりの青い草木があるばかり(最も市内には道路の側には一面に青々とした樹木は茂っておりますが)全く若々しい新緑の草木を見たいと思います。大好きなスイートピーの花もないので、一層日本が懐かしく存じます。

 

このところは全く夜の都(?)ですから、夜の遅いことは普通のことで、時には夜の3時に帰ったこともありました。と言うと遊びでにでも行ったかのように聞こえますが、そうではなく用事のためにそんなに遅くなるのですから、驚かれるでしょう。何しろ遅いのだけが全く私には閉口いたしております。今月のはじめにこちらに移りましたが、それまではいやなパンジョン生活をやり、ほとんど毎日毎日いろいろのことで苦しめられました。只今でも楽という理ではありませんが、やはり独りきりのためになかなかつらいことがあり、よく夜など遅くなって考えることがありました。皆様方はご存じはないでしょうが、異国での難儀ほど悲しいものはありません。当分も未だついく事(?続いていると言いたいのか?)でしょうが、あらゆる苦しい事を味わって見たらかえって楽になるのではないかなと思ってみたりして、一晩中起きてしまったこと等もありました。人間はこんな具合にして訓練されてゆくものかしら等とあるいはもっともっと苦痛が増すものか等と独りで思いに沈むこともありました。いずれこんなことは日本に帰りましたならば、申し上げることにいたしましょう。

 

さて、少しづつドイツに慣れてまいりました様ですが、未だ自分で自分の自由のきかないのが弱点で、いつもいま少しドイツ語でも出来たならばと思います。ドイツ人は(悪い奴はなかなか多いですが)割合に親切です。知らなければよく教えてくれます。殊に悪い方をあげると、例えば買い物をする場合、日本人と見ると値をたくさん上げる店がありますから、うっかりしていると同じもので非常な値の差を生じます。人に多いて見ました(?)ならば、こんなことは平気でする由。また、今一つは大変に親切にしていて腹の中が全く違うことがこれが最も癪に障ることでしょう。これがまた多いのですから、全く(?)油断が出来ません。

 

市内には一寸法師のような人をよく見ますがこれらは戦時中、食物の不足から来た一種の病気で(名を英国病と言います。何故だか知りません)それは気の毒なものです。これらを見ると我が共は本当に幸福だなと思いました。

 

(中の人ツッコミ)

パンジョン生活の意味がわかりません。(どなたかご存じの方、ご教示ください)

やはりベルリンは「夜の街」という部分もあるのかもしれません。どちらにしても5月になると日暮れが遅くなるので、ついつい「夜更かし」になってしまうのかもしれません。いろいろと言い訳をしています。

そして規矩士が留学したころは、まだ欧米では人種差別があったと思います。もちろん東洋人は差別の対象です。日本人も例外ではない。このあたりの記述は、「ひょっとして人種差別に遭っていた?」と思われなくもないです。

第一次世界大戦が終わってまだ10年しか経っていないドイツの街です。第一次世界大戦ではベルリンの街は直接な被害はなかったようですが、戦争の爪痕はまだ残っていたのですね。傷病兵や、戦後のハイパーインフレでの荒廃のあとがまだ残っていたのだということを思いました。

encyclopedia.ushmm.org

 

5.昭和3年5月6日4 ベルリンの街かどから。ゴミが多い。貧弱な建物が多いから地震があったら?

「道路はよく整っていますが、その割にゴミの多いことで、その点は日本も変わりません。ただ、交通の盛んな道路は自動車の多いために道路が光っていることです。これなどは日本では全く見られないものですが、よくもあのように見事に光っているのだなと思いました。それだけに自動車の数が多いということがおわかりでしょう。この土地には土と言うのもの代わり砂がその代理をつとめています。ですから風でもある日は外を歩くのがつらい事です。畑に行っても土ではなく皆こまかい砂ですから、それやこれやで市内も割合に綺麗ではないかと思います。

建築は地震のないために甚だ貧弱な骨組みで建てられますが、あれでもと思われる位に危うく作られているので、それから一度地震でもあろうものならば、ひとたまりもなく全滅だろうと思われました。建物は皆、石や煉瓦を積んだようなものばかりです。ひと月かふた月位で完成すると言いました。何と簡単な建物でしょう。それでも五階層ですから、猶更(?)の他はありません。近頃はやっと天気が続くようになりました。風もなく気が晴々といたします。またこの続きをだんだんお話いたしましょう。

モムゼンストラーセ23にて」

現在では「日本の街はゴミが少なくて清潔」と言われていますが、これは1964年の東京オリンピックの時の「美化運動」で変わったのだそうです。

それまでは下水普及率が低く、中小河川が下水代わりのような感じだったので、街はかなり臭かったようです。

オリ・パラ今昔ものがたり 東京は「臭いまち」だった】

www.nippon-foundation.or.jp

ヨーロッパは地震がないから、けっこう危ない建物多いですよね。

北ドイツ、リューネブルクの傾いた建物。よーく見てください。傾いているというか歪んでいます。大丈夫?

2000年に中の人がドイツに行った時に写してきました。この街は教会も傾いていました。リューネブルクは中世期、製塩業が盛んで、塩気のある地下水をガンガン汲んで、郊外の森の木々をガンガン切って薪にして、製塩をしていました。ということで、街の中は地下水の汲みすぎで地盤沈下。郊外は草原となっています。

地震がないからいいけど、日本人の私はちょっと怖い。

ベルリンの街中で少々メンタルがやられている規矩士先生、こんなツアーに参加したら、少しは気が晴れたでしょうか?

 

4travel.jp

【Berlin - Symphonie einer Großstadt (1927) | von Walther Ruttmann】

www.youtube.com

6.昭和3年5月16日1 笈田光吉、クロイツァー教授のレッスン

この日の残されている手紙は、いきなりクロイツァー教授の話となっています。文章の流れからもう一枚あったのでは?と思いますが、古い話です。散逸してしまったのかもしれません。長い年月が経っているので、仕方がないです。

レオニード・クロイツァー

ja.wikipedia.org

クロイツァー教授の参考文献には以下のものが日本語で読めます。

山本尚志著 『レオニード・クロイツァーその生涯と芸術』音楽之友社  2006年

萩谷 由喜子著『クロイツァーの肖像~日本の音楽界を育てたピアニスト』ヤマハミュージックメディア 2016年

 

「クロイツァー先生のお稽古は毎週水曜日にいたしております。幸い笈田氏が(一風変わった人ですが)よく世話をしてくれますので、非常に助かっています。曲の表情、弾き方等、長年この先生についてやっていられたのですから、聞くにしくはなくと思って、たくさんに聞いていますが、こちらに来たならば日本の先生ではなく、全くの子どものようなもので、いくら威張ってもこちらで長くやっていた人には何かと欠点が見えるものですから、こちらもなるべく日本式の欠点を上げてもらって少しでも善い方に導いてもらいたいとつとめて質問をいたしております。日本に帰られたならば偉そうな人でも、こちらに来ては実に甚だしい失敗をやっているので、私なども当地に来て先生につきはじめて日本式のとてもまどろいことを知りました。笈田氏も何かと指図をしてくれますから、今は先生と言うことを忘れて、お互い日本人を助け合う意味でいろいろの注意を伺っております。ドイツ語等はとても素晴らしく上達していて、難しい事及び易しい事。なんでもどしどしこちらから聞きますから、先方も喜んで教えてくれます。年は27,8とか未だ若い人ですが、なかなか上手にやります。最近日本に帰る由。リサイタルを開くと言っていました。」

笈田光吉

kotobank.jp

blog.livedoor.jp

笈田光吉は、規矩士がベルリンに留学する前から長年クロイツァー教授に師事していたようです。推測ですが規矩士が東京で勉強していた方法と、クロイツァー教授の方法が違っていた可能性があります。規矩士はベルリンに行く前はウィリー・バルダスに師事していたようですが、彼が東京にいたのは1年間。規矩士はバルダス教授の前はショルツ教授に師事していたようです。(弟の三郎氏の日記に書き写されていた婦人画報によれば)

tanakakeiichisaburou.hatenablog.com

規矩士がショルツ教授のように弾いていたとしたら、クロイツァー教授の演奏法とはかなり違う。クロイツァー教授のレッスンはもちろんドイツ語なので、始めはかなり戸惑ったかなと推測します。

www.happypianist.net

www.happypianist.net

リンクを貼った意見を元にクロイツァー教授風とショルツ教授風を推測して弾いてみました。曲はチェルニー50番の3番の冒頭です。クロイツァー教授風は腕から弾きます。ショルツ教授風は指先だけなので、重い鍵盤のピアノで弾くとどうしても力が入る。しんどいなあと思います。

しかしチェルニーが活躍した19世紀前半のピアノは鍵盤が軽い。ショルツ教授風の方が良いかもしれません。

私はピアノを弾く時にはクロイツァー教授風に弾くので、ショルツ教授風は難しかったです.....。

これだけ違うと規矩士大混乱かも?と思いました。

(ヘタクソですみません.....。<m(__)m>)

www.youtube.com

7.昭和3年5月16日2 音楽教授としての心構え。そしてシュナーベルの演奏会に行きました。

「日本の欠点としては先生は真に偉くなり過ぎるのが、大変に悪いことでこれがそもそもの進歩を妨げることとなり、従って生徒の上達ということにも非常なる影響を及ぼします。(こんなことは日本の方には大きな声で話すべきものではありません。全くに秘密ですからそのおつもりで)外国は決してそうではなく、先生自身が非常なる研究をなし、(先生同志でも研究の競争をしているようなものです)生徒を励ましておりますから、生徒はいやが上にもめきめきと上達いたします。この式を倣って私共も国に帰りましたならば、先生ということを忘れて前よりもなお一層に研究をし、皆様方の上達に御便利をはかりたいと考えております。」

(中の人ツッコミ)

規矩士の没後、妻のたなかすみこが主宰した「全国いろおんぷ協和会」では、会員の技術向上のために多くの講習会、マスタークラス、ワークショップが行われました。規矩士のこういう意見の影響であったと思います。

外部講師として最多であったのは豊増昇氏でした。

 

定った名誉職を良いものとして偉そうな顔をするのは勿論進歩を妨げますし、少しも上達はいたしません。音楽の都と言われるドイツでさえ、日夜研究ということを決してゆるがせにせずとうしたならば、前より一層良い効果を得られるかとか、或いはより良く弾けるかとかいろいろに考えておりますから、一つ曲でも何回となく同じ人によって弾かれるそうで、

先日もピアニストシュナーベル氏の演奏を聞きましたが、これなどは今までに何度か演奏せられたら由にて、それなどをもってしましても如何に同じものを弾いても一回やるごとに演奏法が違ってくると言うことをその人から教えられているようなものです、との話でした。良い音楽会は私がこちらに来てから今までにただ2回だけで、(つまらないものはありますが、多く僄値なしと)本当に残念に存じております。いずれ来年には第一番にかけつけることを楽しみにしています。この2回の音楽会のプログラムをお目に書けます。(音楽学校には多分1枚だけ送るつもりです。プログラムはこれだけしかありませんから、失わぬようにして下さい)」

同封されていたプログラム。

音楽院ホール(多分)にて。

1928年5月14日(月)夜8時開演

アカデミーオーケストラ ベルリン(ベルリン高等音楽院のオーケストラだと思う)

指揮:ワルター グマインドル

ピアノ:アルトゥール・シュナーベル

曲目

ブラームスピアノ協奏曲第2番Op.83

シューベルト交響曲第7番D759 (未完成)←超有名曲ですね。

アルトゥール・シュナーベル

www.nishino-tomoya.com

ベートーヴェン作曲ソナタ第30番作品109

www.youtube.com

(中の人は「音色が綺麗」と思いました。生で聴けたなんてウラヤマシイ)

1930年(昭和5年)の録音があったので貼ります。

www.youtube.com

ja.wikipedia.org

7分あたりにおそらく本人と思われる写真があります。

www.youtube.com