83.昭和3年10月13日1 原田親雄上田繭糸専門学校教授にお世話になっています。
『すみ君へ』①
ハサミは本当に使用して下されば本望です。御礼はいりません。ダンケシェーンは勿論それがなくてもきっとご使用の事と思います。
〇愛に対するえらいご意見を伺いまして、少し恥ずかしくなりました。つまり宇宙はすべて夢から出来ています。私がいつも言う「温かい心」とは言い換えれば愛になります。これはきっと気が付くだろうと前からそれとなしに話ておりましたが、よく気が付かれました。つまり最後はそこに来るのです。芸術も皆、この心。未だこの心には沢山の意味が含まれていますから、充分に考えてください。
〇聖句有難く拝見しました。何事も皆、これです。いつも忘れないように。
〇一度先生になると生徒の苦しみがよくわかります。殊に試験では先生の方がより以上に頭を使います。よくおわかりでしょう。我楽の骨折はいかばかりかあえて言を待たずとは…。まあ世の中はそうしたものです。そこでその先生が鼻を高くするともうおしまい。少しも恩を鼻にかけない普通にしておられる人が、本当の立派な先生。とかく自分の骨折を人に知らせたがるのは人間の根性。
〇各方面に通信する人はほとんどありません。(原田教授に親しまれる方は、皆、通信をしています。大抵の人はむしろお遊びにお忙しき様子。人のことはかまいません)必ず私は御通信します。男女、生徒、先生と皆に分けて御通信しています。別に深い意味はありませんが、少しでもその(?)に長くあるようにと思ってそうしています。
(中の人ツッコミ)
今までの手紙からも「原田教授」のことが多く書かれています。
東京音楽学校の関係者ではない、上田繭糸専門学校教授の写真が大事にされていたのが不思議でした。アムステルダムオリンピックのあとで、ベルリンで同様の競技会があった時も一緒に観戦したようですね。一緒に「人見絹枝」さんの応援をしました。そしてベルリン郊外の散歩も一緒しているようです。
6月17日付けの手紙のツッコミでは、「まさかまさか規矩士先生の下宿探しの時にご一緒したのは、原田氏?年齢は合います。」と書きました。
8月19日付けの手紙では、下宿でのトラブルは原田教授が談判したり、8月12日付けの手紙でも原田教授が下宿トラブルに関して何かと応援をしてくれています。
なので、6月17日にツッコんだ「下宿探しにご一緒した」のは原田教授なのだと思います。
規矩士は原田教授と親しいようですね。
6月3日付けに規矩士はこう書きました。
「お名前は申し上げませんが、人の話によってもその方はこちらに来ている人には稀に見る人格者だそうです。私も本当に安心しました。この方は偶然ドイツの大使館でお目にかかったのがもとで、それから今日までいろいろのことでご心配をいただいております。どんなに困ってもこの方がいる以上は心強く感じます。私の見るところ、こちらにいる留学生の多くが言葉には表せないことをしていると言うことも知りました。幸いにそんな心の美しい人格者に巡り合ったということも、何かの縁のあったことと非常に喜んでおります。ちょうどその方は、私の兄のような痩せた人で、何だか自分の兄ではないかと思えてなりません。行いが全く自分の弟に対するようです。ご年齢は43歳とかだそうでした。だいぶ余談をしましたが、その話はその位にしておきまして、また、何かの折に申し上げることにいたします。」
この方は原田教授では?と思いますがいかがでしょうか?
見た目もなんだか兄、田中敬一氏に似ているような気がします。