178. 昭和4年3月27日2  クロイツァー先生の演奏を聴いて2 クロイツァー先生の演奏には無理がない。

(続き)

(クロイツァー)先生の演奏には無理がないのです。某氏大家の言われる通り、自然そのものです。ただ、大家になると我々共のような演奏法とは違ってある特別なる拍子の自由ということに重きを置かれますから、どうかすると思いもよらないところに拍子の伸び縮みがあり、一寸異様の感じがしますが、それをよくわきまえないと、とんだことになりましょう。

とんだ所とは大家気取りと言う意味です。

それ故、我々共あいつもよく自分の立場を考えて頭だけが大家にならないよう、そしていつも無邪気の子どものように、あどけなく勉強することが出来るように希望します。

実際世間を知らない学生時代が(漢字が読み取れない)はあがるものです。世間を知るようになると自分の責任を感じて割合に進まなくなります。というのは、頭の方が先に進んで、手の方がそれに伴っていかないことです。その上に仕事が多くなり、勉強の時間が少なすぎるので、どうしても思うようになりません。

自分というものを少しもより良く人に見せたいとするのは、人間の根性と言いますか、本性と言うべきか、これがその人の進歩をもっともより多く妨げる原因になります。

人を憚って、練習も出来ず、あるいはこんなことをしたらば笑われるだろうと等と、つまらぬところに気を遣ったりして自分の至らない所をますます至らなくしてしまうなど。(これらは全く進歩を妨げる、あるいは毒薬のようなもので)こんなことは学生時代にはまるでない事がどれだけ進歩を助けるでしょう。つまり世の中がだんだんとその人をえらい者に押し進めるのが、結局は退歩の原因となるようなものです。

勉強はいつも子どもの心でなければ進歩しません。

所謂ブルことが大禁物です。(中の人注:おそらく大家ぶることは大禁物と言っていると思われる)ブル人は(慢心)最早進歩が終わりと言っても過言でないでしょう。こちらの大家は少しもブリません。どこまでも謙虚の態度に出ます。学生時代をこれからの出来事にも応用していくことが、その人の進歩発展にどれだけの効果あらしめるでしょうか。

(中の人ツッコミ)

「クロイツァー先生の演奏には無理がない」

たくさんアップされているクロイツァー先生の演奏を聴いて、現代に生きる中の人から見るとかなり自由に弾いているように感じますが、確かに嫌味がありません。これが規矩士の言う「無理がない」「自然」ということなのでしょう。

【クロイツァー先生の演奏 ショパン:バラード第3番Op.47(1928年)】

ちょうど規矩士がドイツに留学した年に録音された音源とのことです。規矩士がベルリンで聴いたクロイツァー先生の演奏はこんな感じだったのでしょう。ピアノはブリュートナーです。

この動画のサムネと(タイトルの影になってしまいました。)2分1秒からの集合写真の最後列左側の男性は規矩士です。クロイツァー先生の右は井口秋子氏です。彼女も規矩士の元門下生でした。

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クロイツァー先生の演奏を聴いての感想から、規矩士がおそらく常々思っていることが文章に出てしまったようです。大幅な脱線ですが、大切なことが書かれています。

規矩士が言う「子どもの心」というのは、ただひたむきに真摯に邁進するということを言っているのだと思います。

自分の演奏をきちんとジャッジ出来ているか。より良い演奏になっているか。

規矩士のストイックさが見える文章となりました。

このような文章を読むと規矩士は「アスリート気質」なんだと思います。