179. 昭和4年3月27日3  クロイツァー先生の演奏を聴いて3「妙技に入るとその瞬間は我を忘れます。演奏者も聴衆も一つになります。そこに初めてその演奏の効果が完全に示されることになります。」

(続き)

話は逸れましたが、また、ピアノの続きで、今一つ感じた事は、大曲の全体の統一という事。これは先生ばかりではなく、誰にしてもなかなか難しいことでしょう。

しかし先生はあのカーナバルの(中の人注:シューマン作曲謝肉祭Op.9)大曲をあたかもチェルニーのように楽々と弾かれました。どこに難しい所があるのかさっぱりわかりませんでした。

どうもこの「楽」がなかなか出来ません。(中の人注:この出来ないのは規矩士が自分のことを言っていると思います。)

人にとても難しそうな感じを与えるなどはこちらでは恐らくないでしょう。大抵の人が平気の顔でひきこなしますから。

大家の違う所は、弾き始めと弾き終わりがいつも同じであって、むらがありません。我々のように始めだけ少し弾けてものちにすぐへたばる等は全くなく、むしろ終わりになる程良くなっていきます。

自分の例にしても終始一貫はとても難しくて、第一精神統一が乱れがちになります。

つまり聴衆に弾かされるうちはまだまだ神業ではなく、聴衆を自分のものにするだけにならなければ感動は与えられません。(自分天狗で、聴衆を馬鹿にする連中とは意味が違います)

こちらの大家のはいずれもその神業に引き込まれてしまいます。(漢字が読み取れない)にしても、先生のは少しも不自然ではありませんでした。

どのような音を出して、どのように弾かれるか質問が起こるのは当然でしょうが、その気持ち、精神の表現についてはどうしても筆では書けません。これは直接に話すことにして、ここでは大体の感じだけを申し上げることにします。

妙技に入るとその瞬間は我を忘れます。演奏者も聴衆も一つになります。そこに初めてその演奏の効果が完全に示されることになります。もちろん上手であることもその条件ですが、まず第一にその人の人格がその演奏を通じて聴衆を味する上により、以上の必要条件であることです。

 

(中の人ツッコミ)

ここでもクロイツァー先生の演奏会の感想から、規矩士の芸術論に話が逸れました。

規矩士が書いていることは、中の人も恩師たちより常々言われてきたことです。

「この曲まだ弾けないんだよね。どこそこがまだ弾けないんだよね。」

こんなことを言っている間は、まだまだです。

人間はいっぺんに出来ることがそんなに多くないので、少なくとも「弾けないんだよね」はなくしておきましょう。

何も考えないでさらりと弾けて、そしてその曲の精神を表現をすることに集中するべきでしょう。

「演奏会に集っている方々は、あなたの頑張りを見に来ているのではありません。その時間を楽しむために来ているのです。」

しかし中の人は未熟なままなので、理性ではわかっているんですが、どうも.....。

 

「妙技に入るとその瞬間は我を忘れます。演奏者も聴衆も一つになります。そこに初めてその演奏の効果が完全に示されることになります。」

本当にその通りだと思います。こういう演奏会に出会うとその余韻がいつまでも残ります。本当に幸せな気分になれます。こういう演奏が出来たらと願うのですが。