話はだいぶ脇に逸れましたが、以上の三氏の御演奏は実にテクニックにおいては全く性格その字通りでした。まず第一の要素、曲譜を間違える(悪く言えば「ごまかす」と言う方が当たりましょう。一寸の引き違えはこれは氏方がありません。私の申し上げる間違えるということは「ごまかす」ことを意味します。)などと言うことは更にありません。曲の感情は思うぞんぶんに表されていました。
私の書きます字及び文章はいつもこの第一の要素に当てはまっておりますれば宜しいのですが、どうも何とも申し訳ない次第でいつもその……。
感情は充分に出てもトリオの意味がよくわからなくないと変なものになります。トリオとは早く申せば、オーケストラを小さくしたものと見て差支えはありません。ピアノが主になることはご承知の通りです。けれどもその感情は「ピアノが主である」と人に思われるようでは未だその「トリオ」は完全されたものではないでしょう。良い「トリオ」になるとピアノもセロ(チェロ)もヴァイオリンも皆、主です。そして三つの楽器の音の差がまるでないことです。勿論楽器の性質は違いますが、その違った楽器がいかにも気持ちよく調和されていることで(丁度オーケストラにおける沢山の楽器のように)例えばピアノを特に聴こうと思うといつか知らぬ間にセロ(チェロ)の方に気が奪われ、セロ(チェロ)がまたヴァイオリンに変わって行くなど、全くこれが良い「トリオ」の聴衆に与える感情ではないかとつくづく感心しました。ヴァイオリンが特に耳につくとかピアノがとかは全く下手な証拠です。
(中の人ツッコミ)
規矩士の「トリオ論」が冴えわたっています。
トリオ経験の豊富な規矩士ならではの視点と、反省が綴られています。
これだけいろいろと書いた規矩士ですが、日本に帰ってトリオを組んだことはあったのでしょうか?現在の所それは見つかっていません。
しかしアンサンブルは好きだったようです。日本に帰ってからは妻になったすみことの「ピアノデュオ」が中心になりました。
画像はクロイツァー先生のトリオのチケット。
1928年9月22日 会場はジングアカデミーホール
