89.昭和3年10月13日7 クロイツァー先生のトリオを聴いて。規矩士のトリオ論2 「やはり自由に表現できるまでテクニックは必要」

よく内地で「あの人はただ、テクニックを主として感情を表さぬ、まるで機械だとか、あるいは感情がさっぱりない、情熱がゼロ等言われる方を耳にしますが、内地でテクニックの非常な立派な人と言ったら悲しくも未だそれだけに立派な方は(これは甚だ失礼な言い方ですが、こちらの人々と比較してのお話)今のところないと言っても過言ではないと信じます。

それだのに感情がどうのこうのとは、丁度船を漕ぐことを知らないで、上手に漕げと言うほうなものでしょう。まず、漕ぎ方を充分に知ってから上手に漕ぐようにするのは順であることは、誰でも知っていそうなものですが、どうもそうではなしに、何でもかでも上手に漕げ漕げと言うことを、始めから申される方はテクニックはかりやっていて、感情の方が出ない困ったものと心配している方がありますが、それは決して心配には及ばぬと思います。

テクニック自体はベルリンでこそもうその必要がありませんが、内地では未だテクニックを大いにやらねばなりません。兎に角テクニックをそっちのけで、ただ、頭だけを働かすものは、日本には殊に多いでしょう。

もちろんテクニックは芸術表現の手段に過ぎぬのですから。これが最善のものでないことはご承知の通りですが、このテクニックすら未だ日本は欧米諸国に比べて非常に劣っていることは今さら申し上げるまでもありません。

要するにテクニックが完全すると(中の人注:完成するとではないかと思う)自分の思う感情、精神が楽に出ます。

曲譜を間違えないで演奏することも第一の要素になりましょう。ベルリンではもはやテクニックはその必要がない程までに行き詰まっています。その上に曲の感情、精神を気付くのですから、我々がコツコツやるのとはまるで別問題です。

ちょうど我々が語学を習って本を読むようなもので、本を読むということがやっとなのに、どうしてその書物の精神が汲めるでしょうか。語学の力が沢山あってこそ楽に読書も出来、その精神も掴めるようになることは、ピアノにおけるそれと全く同じようです。いつもこちらの人を見てうらやましくなります。」

(中の人ツッコミ)

そもそもこの規矩士の手紙の「テクニック」ってなんだろう?

その昔、お世話になった先生の教えです。

「表現とテクニックは車の両輪。『こういう風に演奏したい』と思うと、それが弾けるようになるためにテクニックが磨かれる。そしてテクニックが磨かれるとまた表現が膨らむ。そういうものですよ。もちろん基礎技術があることが大前提だけどね」

 

「機械のような演奏」というのはつまり「表現をするというテクニックがない」ということだと思います。

「きちんと弾ける基礎技術」がないと、表現をするテクニックを身に着けることは出来ないと思います。人間そんなにマルチタスクではないから。

「きちんと弾ける基礎技術」がないと「その曲がなんとか弾ける」だけで手一杯になってしまって、その曲を表現する余裕はありません。

まずは「きちんと弾ける基礎技術」ありき。それがあれば「自由に思った通りに弾ける」ということです。

この規矩士の文章は、「きちんと弾ける基礎技術」と「ある意味機械的なさっぱりした演奏」をごちゃごちゃにしているような気がしなくもないです。

規矩士の言う「テクニック」は「きちんと弾ける基礎技術」のことを言っていると思います。

ただどうも日本人はシャイな人が多く、観客に「アピールする表現」というのに照れがあるのかもしれません。