62.昭和3年9月9日2「すみこ宛」2。規矩士の兄、敬一の思い出1
②手のしびれも治りました。こちらは飛行機は盛んです。乗りやすいのですが、もしも乗って誰かに叱られるといけませんから、よしましょう。乗ってよければ乗りますが、落ちたらそれっきりですから、どっちにしたものでしょうか?あまり空ばかり見て歩くと変に乗りたくなります。すみ子女史にご心配をかけると恨まれます故、なしにして汽車で行くことにしましょう。樹木にぶつかりなどするところを見ると多少不安もありますので。おかげで一週間毎日トリルばかりでした。
〇日本の夢は沢山見ます。近頃は夢を見てもだいぶベッドに慣れましたから、落ちません。あらゆる種類の夢を見ます。
〇ドイツのご馳走は何でも塩辛い一方です。中間があれば上等ですが、甘ければ甘い一方です。何でも濃厚なのがドイツ式。
〇料理研究、大いに頼みます。9月9日をよく覚えていました。その時刻に鼻を動かしています。想われから夢を見るのです。全くその通り。」
規矩士はどうしてもドイツ料理がお口に合わないみたいです。苦労しています。のちの妻すみこは裕福な家に育ったのでおそらく独身時代は料理はしなかったかと思いますが、結婚にあたって、手紙でこのように書かれているので、料理修行をしたかもしれません。
戦後、規矩士が勤務した武蔵野音楽大学の教員室ではすみこ手作りの「キャラ弁」が大評判だったと伝えられています。
規矩士亡き後48年間アシスタント先生だったにしきさゆりが「すみこ先生は料理上手だった」と伝えています。
〇敬一兄は仰せの通り8月6日です。アイスクリームが大好物。いつでも外に出るとアイスクリームになります。アイスクリームではいつも敬一兄を思い出します
それにしても今頃はどこを歩いていますかしら。今居たら、どんなに喜んでいるかもしれませんのに。感情(?漢字が読み取れない)の風はどこに吹くものか全くわかりませんが、思えばあまり夢のようです。私の元気は兄の死により、元気の代わりに人を別物にしたように乱暴者になりました。ああ、今そんな事を言う時にあらず、お許しください。ついアイスクリームが出ましたので、話が滑りました。」
1926年(大正15年)に亡くなった敬一兄の思い出を綴っています。
やはり敬一兄への想いは強いものがあったと思いました。兄弟だから以上に同じ音楽を志すものとして「同志愛」もあったと思います。
規矩士が「音楽の本場ベルリン」に来て、やはり思うのは敬一兄のことだったのですね。
「音楽の本場、ベルリンで一緒に音楽の話がしたかった!演奏会にも行き、お互いに感想を述べたり、批評がしたかった!」
読んでいて胸がいっぱいになりました。
規矩士の兄、田中敬一
〇震災の頃はそうでしたか。あまり召し上がってお腹を壊すことが最も危険です。
〇伯父様の御珀日、早いものです。どうぞ伯母様を幾重にも御慰め下さるようお願いいたします。一人ほど淋しいことはありません。私もこの経験はこちらに来て知りました。
〇夏休みとはいってもなかなか忙しいもので、暇になると病気になるくらいなものです。
〇御通信は全部着きます。(?読み取れない)はお互い様。(?)らなくてもわかります。ご安心ください。
クロイツァー先生稽古は9月5日からでした。事件はどこにも起こるようです。完全な下宿はまあないでしょう。こうして2年や3年は経ってしまうでしょうか。
〇『望郷』なる書物は知りませんが、それについては自分でもなかなか材料があります故、帰郷の時には任意でお話します。一時泣かさる所もありますが、今は泣くとどこかの人に言う話なしと思い、それはよします。
〇小説でも良いものは良いので、読んでも害はありません。私はただ、暇がありませんから読まないだけで、決して人には「読むな」とはすすめません。ですが、良いのが少ないので困ります。私のお話することが小説ならば、「忙しいから読まぬ」と言われますか。考えようでいろいろになります。読まないのでも自分のしていることが小説ではありませんか。」
中の人もざっと「望郷」という小説を探してみましたが、よくわかりませんでした。(どなたか情報求めます)
規矩士は小説はあまり好まないのでしょうか?そういえば弟、三郎氏の日記にも「ああ無情」は敬一兄と三郎氏は読んだようですが、規矩士が読んだとは書いてありませんでした。
規矩士は「事実は小説より奇なり」と思っていたのかもしれません。