61.昭和3年9月9日1「すみこ宛」1。ベルリン高等音楽院入学は事情によりやめました。
1928年9月9日
「すみ君へ」
大抵御通信は17日位、最も早い時は二週間のこともありました。
ベルリンには全く夏はありませんから、避暑は無用。来年は何とか旅行するつもりです。
そちらではこれに習って無理にどこか出る必要もありません。といっても止めはしませんが、どこでも自由とてドイツまで来られては大変ですから、どうぞおとなしくお家におられるのが賢いでしょう。ピアノをお友達として。
御姉上様、御妹様、御避暑の由。仲子様からの御土産として御ハガキは恐縮いたします。どうかよろしくお伝えください。いつも嬉しく拝見いたしております。
鯛めしのご馳走、こちらでは頂戴すること(?)うらめしですか。何にしても考えただけで、満足しましょう。白子様によろしく。」
すみこさんが「ドイツに行きたいわ」とでも手紙に書いたのでしょうか(微笑)
〇「鳩の生活」全くその通りです。人間も同じでしょう。尊いものはただ一つ、宇宙間すべてそうでしょう。ただ一つだから、尊いのです。一という数はすべての基礎です。
〇あの白い犬も倒れましたか。気の毒なことを。小生も知り合いでした。いなくなりましたら、さぞ御淋しいでしょう。ドイツにはたくさんおりますから、どれか良い奴をと思いますが、封筒に入らず、甚だ惜しいことです。エルの犬にはなかなか面白いお話を伺いました。御父上様の御着想、何程と感じ入りました。池上の方から「エル、エル」ならば、ベルリンの方のは「ベル。ベル」ですか。あまりベルを鳴らして叱られるといけません。その辺で切りましょう。」
黒澤家の犬が亡くなってしまったようです。
今までの手紙の内容、そしてこの「わんこ」の記述から、規矩士は黒澤家にかなり「入り浸っていた」のでは?と思います。
「ドイツにいる犬を捕まえて送りたいけど、封筒に入らない」というのは規矩士独特のユーモアですね(微笑)
〇日本国旗を感謝します。本当に気持ちが良いです。本の中に入れましょう。手紙の中にいろいろのものがあると、福袋のようで、面白いです。
さあ、この次は何が出るのですかな?リンゴの皮を入れて.....。叱られたのはどこの人だったかそれは多分。
(中の人ツッコミ。現代だったら笑とかwwwとかいうものがこの後に書かれるかと微笑)。
あ!そうそう、例の人でしたか。おとなしい人はいつも信用があります。
〇あまり遅くまで書くと叱られるといけません。おやすみあそばせ。
〇歯痛は全くなし。御安心。御見舞い多謝。
〇村上様たちは10月ごろ来られます。博物館にはあまりありませんが、カイロの博物館でミサの面白いのを見ました。時間があったら写したかったのですが、先を大変に急いでいる旅行なので、惜しいことをしました。8月5日と申せば、最早過ぎ去りましたが、その日は記念すべき喜ばしい日でしたか。ちっとも知らずに忙しくしていました。ここに改めて女子のお誕生をお祝いいたします。どこにも行かないで蒲田に住みやすい(澄み?)と言うところから、そこでいつでも気がせいせいするようにと(心が澄むように)の皆様の御考えから「澄子」となりましたら、理由は全くその通りです。私も感激しました。
すべての人は死日をみることは出来ません。変名するならばいざ知らず、みが上にならないかぎりは大丈夫でしょう。ご安心なさい。
(中の人注:すべての「す」みが上の「み」の字が〇で囲まれていました。「す」と「み」が囲まれていて、「すみ」となっています。)
〇ベルリンと内地とは8時間の差があります。少しは若返っていましょう。8月は皆休みです。
音楽学校の方は、クロイツァー先生の科が満員のため、やむなく試験は止しました。入学してもクロイツァー先生につけなければ、無意味ですから。
看板に音楽学校をくぐるならば、何にもなりません。
コハン先生から「試験を受けるように」といろいろの準備を与えられましたが、右の次第でコハン先生にはお気の毒ですが、見合わせました。
(中の人注:コハン先生とは東京音楽学校外国人教師の「レオニード・コハンスキー」のこと)
別にあなたから他の方には「試験」の云々はお話になる必要はありません。コハン先生に聞こえても悪いですから。ただ、聞かれた場合に、「クロイツァー先生についてやっている」位に御話ください。3年間至5年の期日を希望しますが、2年でも全く何から何をしようかと迷います。試験では始め随分考えました。実力の点で、看板だけではと笈田氏も言われるので、そのようにもしました。ベルリンでは、シュナーベル、クロイツァー両氏が一流ですが、我々にはクロイツァー先生が良く合います。」
規矩士もドイツの地でいろいろと落ち着いてきたようです。いろいろと冗談やユーモアのある手紙が増えてきたようです。読んだすみこさんが「クスっ」とする様子が目に浮かびます。
そして規矩士はクロイツァー教授満席につき、「ベルリン高等音楽院」入学はあきらめたようです。
今はビザや滞在許可証の問題もあるかと思うので、おそらくどこかの学校に入ったほうが良いかもしれませんが、このころは官費留学生でも「個人教授」で問題がなかったのですか?
そして規矩士の印象では、「日本人にはシュナーベル氏よりクロイツァー先生の方が良い」と思ったようです。
シュナーベルは現在のポーランド出身。ウィーンで勉強してデビュー。のちにベルリンに移住。しかしユダヤ出自だったので、ナチスドイツの台頭でドイツにいられなくなり、スイスを経由してアメリカへ。1951年にアメリカで亡くなりました。
クロイツァー先生はロシア、サンクトペテルブルクの出身。同地で勉強してデビュー。しかしロシア革命で結局ベルリンに移住。しかしユダヤ出自だったので、ナチスドイツの台頭でドイツにいられなくなり、日本に移住しました。そして1953年に日本で亡くなりました。
規矩士が留学していたころのベルリンではこの二人が一流とされていましたが、その後の人生は大きく変わりました。
ウィキペディアの情報なのでどこまで本当かわかりませんが、シュナーベルはあまりレパートリーが広くない。少ないレパートリーを深く掘り下げる芸風だったのかもしれません。
それにひきかえクロイツァー先生は膨大なレパートリーを誇りました。これも規矩士に「我々にはクロイツァー先生が良く合います。」と書かせた理由の一つかもしれません。(あくまでも推測です)